Miyajima Noriko
背後にある言葉
− 藤原新也さんの問いかけ −
ここ数年、南の島に住んでいる。去年も秋に帰国した。
留守にしていた家に帰り、ふと郵便受けを見ると、
藤原新也さんの展覧会のご案内が届いていた。
昔、俳句のような絵と言われたことと、
作品集の中で「木を運ぶ」という絵を選んでくださったことを憶えている。
あまり積極的に作品を発表して来なかったのは、
ただ単に私が怠惰だっただけ、なのだろうが、
藤原さんのこの言葉も影響しているような気がする。
「絵なんて発表しなくてもいいのかもしれない。
子供は絵を描いてそれで終わりなのだから。」
それもそうだな、と思った。
だからといって、私がまったく発表しなかったかというとそうでもなく、
家の近くにあるギャラリーからグループ展のお誘いがあったときには、
お断りせずに参加させていただいた。
この点は他力本願だった。
何かをするにしても、
背後にそんな思い(言葉)があるのとないのとでは、
作品や仕事のあり方に違いがあると思っている。
その後、藤原さんがその言葉とどのように折り合いをつけて仕事されていたのか知らない。
誰の人生にも流れがあって、その流れを急に止めることは難しい。
流れ出してしまった理由も在る。
稀に流れを止める人もいて、
それは、その人にとって「止める」ことが流れだったのだろうか、
今の私にはわかりそうにない。
家の近くのギャラリーはYAYASAN (NPOみたいなもの) なので子供の絵のコーナーもある。
「あなたの絵を買った人は、後日、子供の絵も2枚買って行った。」
と、スタッフから告げられたときはさすがに苦笑してしまったが、
子供の絵にはなかなか勝てないので、
ここは「誇り」に思うことにした。
ギャラリーでもない町の郵便局にも作品集を置いている。
いずれも、見も知らない方が購入してくださっている。
ただそこに絵があって出会った、ということなのだろう。
絵を見せるというこちらの意識も必要ない。
その人はその絵と縁があったのだと思う。
またいつかそのことについてわかることがあるかも知れない。
そのときは、またここに書いてみようと思う。
藤原さんはどこか表現者であることを越えて、
たとえば「木を運ぶ」という絵の中の木を運んでいる人になりたそうだった。
時間がゆるせば、そんな風景の中に居る人のような気がする。
木を運ぶ [carrying a tree] Miyajima Noriko
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